元校長挨拶

母校の節目に出会えて

 

旧職員  小 川 宗 康

 人生には節目があると言われます。学校にも記憶に残る節目が同様にあります。節目に出会う厚遇は人それぞれさまざまで数少ない体験となります。私は卒業生の一人としてその厚遇にあずかることができたことを感謝し、節目で体験した出来事や実感したこと、後になって人から聞かされたり、書物を読んで知ったり、考えたりしたことなどをもとに、節目の様子を紹介させていただきます。

 節目1は、昭和22年(1947年)東小学校に入学した時のことです。日本は、昭和20年8月第二次世界大戦で広島、長崎に原子爆弾が投下されました。二つの町だけで約20数万人の尊い生命がうばわれました。日本も人間としてしてはいけない戦争をしたのです。恐ろしく不幸な時代です。私が入学したのは戦争が終わって新しい教育制度ができたばかりの時です。毎朝「友だちがいない」とべそをかきながら登校していた。幼稚園でいっしょに遊んでいた女の子がいなくなったのでさみしかったのでしょう。ところが、2学期途中で女友だちといっしょになると笑顔がもどってきた。と母から聞かされました。終戦前の学校は、男子と女子は別々の学校で学習していたというのです。現在、私立学校は別として公立小学校には男女別々の学校はありません。しばらくして隣りの裁判所の向こうにも学校があることに気づきました。西小学校です。今思うと一つの町に隣り合わせに東と西に小学校が二校並んである町は全国になかったでしょう。新しい教育制度男女共学制度のはじまりであり、日本の民主教育の夜明けでもあります。それから21年後の昭和43年(1968年)東小学校と西小学校は統合して、「笠岡市立笠岡小学校」と改称されました。この年には、新しい校章と校旗が制定され冬の協定服も決まりました。昭和46年には笠岡小学校校歌も決まり明治35年度の卒業生である小野竹喬画伯の『富士山』(油絵・竹喬美術館保管)が掲げられていた講堂で披露式が行われました。こうして現在の笠岡小学校(門標は教育長行本順一筆)に至っています。本校最大の節目です。残念なことに私は市内の他校に勤務していて本校で節目に出会うことはできませんでした。

 節目2は、昭和48年(1973年)創立100周年の事業です。前年、卒業以来30年ぶりに母校に里帰りしました。まさか教員として帰って来ることになるとは想像していませんでした。まず手掛けた仕事は、屋内体育館建設のために解体した管理棟の廃材を焼却する手伝いです。思い出のこもったなつかしい6年教室、職員室、図書室、家庭科室、手垢で黒光りしている階段の手すりなど廃材となった管理棟を焼却するのです。当時は市営の焼却場がなかったのでしょう。学校にも赤い耐火煉瓦を積み上げた古い焼却炉はありましたが、膨大な廃材は管理棟跡地で焼くしか方法はありません。母校の思い出を少しずつ消し去るつらい仕事でしたが屋内体育館ができる喜びの方が大きかった気がします。100周年の事業は、百年誌の編集と回顧展を開くことです。百年誌は、小野竹喬画伯の筆による表題と『青の校門』(水彩画・竹喬美術館保管)、画伯がはじめて校門をくぐった入学の時の思い出をつづった作文からはじまり、明治6年(本校創立年)からの卒業生名簿へと続く編集になっています。私は回顧展を担当しました。校内にある教具、教材、教科書、沿革史等を整理、地区内の人から昔の卒業証書、学生服、古い生活用品等を借りて展示する仕事です。ここで二つの貴重な発見と一つの事業を紹介します。一つは、本校の前身である庶民の教諭所敬業館の扁額(横に長い額)が西本町の商家で見つかりました。本校にとって貴重な財産ですので有償で譲り受けました。それからはずっと校長室に掲げています。二つ目は、別の商家から明治6年敬業小学と呼ばれていた頃、小学校建築のために集めた浄財を記録した寄付金台帳の一部(個人所蔵)が見つかりました。浄財を拠出して下さった地区内の商家名、個人名と寄付金の額が両と圓で記載されていました。本校教育に対する地区民の熱い期待がうかがわれる古文書の存在に感動しました。一つの事業とは、毎年運動会の騎馬戦に使っている和太鼓の修理です。校門2階倉庫に破れたまま放置されていましたが、由緒ある太鼓で胴の部分に書かれた数行の目視できなくなった文に歴史が埋まっていると伝えられていました。そこで、修理屋に依頼して皮の張り替えと鋲や金具の取り換え、さらに丈夫な台を新調しました。平成12年10月(退職年)に岡山県立博物館で『江戸時代の教育と閑谷学校特別展』が開かれ県下の藩校、教諭所、私塾、寺子屋の資料が展示されました。本校にも敬業館にかかわる資料の展示依頼があり、扁額と和太鼓、寄付金台帳を出品しました。博物館から扁額は幕府の祐筆(記録係)森伝右衛門の筆によるもの、和太鼓は備中松山藩(高梁市)板倉家から寄贈されたもの、寄付金台帳は折り目の和紙や閉じ紐が摩耗して修復不可能、いずれも貴重な文化財ですので大事に保存してくださいとの指導がありました。今思えば100周年事業の大収穫でした。

節目3は、令和5年(2023年)創立150周年のお祝いです。思い出の執筆という形で参画させていただきました。100周年の時6年生だった教え子は、社会への恩返しをすませ還暦を終えて第2の人生に巣立ちました。昭和62年新採用教員指導教諭として本校で指導した若き新採用教師は、今本校校長としていっしょに創立150周年を祝い、まもなく幕を引こうとしています。まさに奇遇と言ってもよい人の出会いです。

 節目には成長や変革をともなうことが多々あります。100周年の翌年、児童を主体にした特別活動が重視されるようになりました。児童会では、校訓をみんなにわかりやすい合言葉「ひとつのまとまり」にまとめ、一年生を迎える会や運動会、学習発表会などの幕に「ひとつのまとまり・・・」と表記するようになりました。大きな変革です。

こうしてあらためて振り返ってみると、母校が私に与えてくれた出会いは言葉には言い尽くせないほど貴重なものであったことを実感します。

 

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